「咬文嚼字」を語る
先日、曽国藩が「屡敗屡戦」を用いて「屡戦屡敗」を言い換えたことで皇帝の嘉賞を得たという話を目にし、「咬文嚼字」(言葉をこまかく吟味すること)が私たちにとってどんな意味を持つのか、考えさせられた。
「屡敗屡戦」と「屡戦屡敗」は意味の上ではまったく同じだ。あえて「咬文嚼字」するなら、両者の違いは「戦」と「敗」の位置が入れ替わっている点にあるとすぐにわかる。では、文芸的な観点から見てみよう。前者は困難に立ち向かう印象を与えるのに対し、後者は能力が足りない印象を与える。この二つの言葉にこれほどの印象の差が生まれるのは、私個人の考えでは、私たちの読書の順序と認知の方法によるものだ。私たちの母語に対する認知方法は「文字→物体や出来事→語義の対応づけ」であり、先に現れた語や文字が先に脳内で「映像化」され、後から現れた語や文字は前のものより一拍遅れて「映像化」される。そのため意味に違いが生じる。この例で言えば、「屡戦屡敗」は先に「戦」の映像が浮かび、私たちは「戦」の結果を連想する。その結果は「敗」であり、連想と結果の導出の過程で、脳内に敗北の映像が演じられる。だから「能力不足」という印象を受けるのだ。では「屡敗屡戦」はどうか。これとは逆に、先に「敗」の文字が映像化される。「敗」があれば必ず争いがあり、その争いに結果が出たにもかかわらず「戦」を選んだのだから、困難に立ち向かう印象を与えるのだ。もし「戦」と「敗」の二字が同時に脳内で「映像化」されれば、順序を入れ替えたことによる印象の差は存在しないだろう。
ここまで二字の位置を入れ替えることで得られる異なる印象について述べてきたが、では一字だけならどうだろうか。
郭沫若の戯曲『屈原』の中で、嬋娟が宋玉を罵って言う。「お前は骨のない文人だ!」 上演の際、郭沫若自身が台下で聞いていて、この台詞では迫力が足りないと感じ、「骨のない」の下に「恥知らずな」の三字を加えようとした。すると一人の役者が、「是」を「这」に変えてはどうかと提案した。「お前という骨のない文人め!」 これで十分に迫力が出る。
『咬文嚼字』—— 朱光潜
私は朱光潜氏の文章を引用して、この一字の置き換えが与える印象を検証してみた。もし「お前は骨のない文人だ!」と「お前という骨のない文人め!」を深く掘り下げなければ、ほとんど違いに気づかないだろう。この二つの文はまったく同じ文であるはずだ。ただ字が変わっただけで、意味は完全に同じだ。「是」と「这」の違いは、ごくわずかと言っていい。しかし物理学においては、まさにこのごくわずかな力(クーロン力を例に挙げよう)が世界の発展に影響を与えているのだ。ならば、私たちは再び「咬文嚼字」をしなければならないだろう。
もし「是」と「这」の違いを問われたら、あなたは何と答えるだろうか。わからないなら、この二字をそれぞれ使って言葉や熟語を作ってみるといい。私が言葉を作るとき、最初に思い浮かぶのは「是否」と「这个」だ。人間の脳には慣性思考があり、時にはそれが良くない働きをすることもあるが、時には利用することもできる。
「是否」という言葉を見てみよう。「是」と「否」から成り、疑問の意味が含まれている。一方「这个」は、ある物や事を直接指し示し、この言葉自体が「肯定」という情報を内包している。文脈から言って、嬋娟は人を罵ろうとしているのだから、肯定の語氣が強ければ強いほど、文学者たちが求める「味」が出る。慣性思考は、これらの文字が私たちの脳内で認識されている意味を掘り起こす手助けをしてくれるのだ。
上記の方法に従えば、『屈原』の脚本で「お前という骨のない文人め!」という台詞を使った方が、より優れていることがわかる。
これこそが「咬文嚼字」の魅力だ。まさに、差之毫厘、謬之千里(わずかな差が大きな誤りを生む)である。「咬文嚼字」は文章に文学特有の美をもたらすことができる。
しかし、私たちは知っておくべきだ。一字一句を推敲していたら、いったい何の意味があるのか? 私たちは一生「咬文嚼字」をしているわけにはいかない。
「咬文嚼字」が良いものであることは私も認めるが、同時に、私たちは一生「咬文嚼字」をしているわけにはいかないという主張もしたい。俗な言い方をすれば、「咬文嚼字」はとても疲れるのだ。「屡戦屡敗」「屡敗屡戦」の例や「是」「这」の例だけを見ても、これらを繰り返し推敲するには、大量の精力と時間が必要だ。ましてや、字句の推敲は根拠に基づいて行う必要がある。根拠のない推敲、いわゆる連想に頼った推敲は、読者がこれらの文章を読む際に非常に苦労させることになる。
例えば蘇東坡の「恵山烹小龍団」という詩の三四句、「独携天上小団月、来試人間第二泉」。「天上小団月」は「小龍団」という茶から連想されたものだ。もしこの関連を知らなければ、原文はまったく通じない。
『咬文嚼字』—— 朱光潜
朱光潜氏の蘇東坡の詩に対する見解は、まさに私の見解でもある。もし文章を書く際に力を込めて推敲すれば、その文章は魯迅の筆になる孔乙己という人物が「之乎者也」を口にする姿のような、捉えどころのないものになってしまうだろう。だから文章の中で力を込めて「咬文嚼字」することは推奨できない。もちろん、蘇東坡のこの詩が劣っていると考えるべきでもない。蘇東坡の詩に関しては、読者は深く掘り下げて読むことが求められる。しかしそれはあくまで文学の大家たちに対してであって、一般の人々にとっては、それは蛇足でしかない。
日常生活における言葉の役割は、何よりもまずコミュニケーションだ。「咬文嚼字」をすれば、人との交流に大きな影響が出るだろう。自分自身にとって、字句の推敲には時間がかかる。時間をかけない推敲は、たいていの場合、根拠のない連想になってしまう。他人にとって、コミュニケーションの目的は意思を伝えることであり、文芸的な雰囲気や文学的な风采を示すことではない。「咬文嚼字」自体が考えを表現する行為であることは確かだが、それが連想に基づくものであれば、人は理解に苦しむ。事実に基づいて得られた一字や一語であっても、多くの場合、他人は気づかないものだ。私たちが文字を書面に起こして初めて、時間と思考をかけて深く考えることができる。ただし、これは前の段落で述べた内容と矛盾してはならない。
次に、文章における「咬文嚼字」について考えてみよう。たとえ力を込めて推敲しなくても、特定の字だけを推敲したとして、私たちは何を得られるだろうか。文章を深く読んで注意深く分析でもしない限り、あなたが推敲した字句を気にかける人がどれだけいるだろうか。
これが「咬文嚼字」がとても疲れる理由だ。これは労力がかかるが、必ずしも利益があるとは限らない行為なのだ。
では、「咬文嚼字」は一体良いことなのだろうか?
これは実のところ答えのない問いだ。「咬文嚼字」をしてはいけないとは言えない。なぜなら、それは人に利益をもたらすことがあるからだ。しかし、それを否定することもできない。私はこう言いたい。「咬文嚼字」は必ずしも良い結果をもたらすとは限らないが、良い結果をもたらさないわけではない。私たちの文章がこの利益を得るためには、「暗黙のルール」を守る必要がある。やりすぎず、やらなさすぎず、適切な時に推敲し、不適切な時に推敲すれば、かえって逆効果になるかもしれない。「咬文嚼字」それ自体が、微妙なバランスの上に成り立つ関係なのだ。まるで囲碁のようなものだ。もし一方が強すぎたり弱すぎたりすれば、その一局に期待できるものはなく、対局の楽しさも味わえない。双方の実力が拮抗して微妙なバランスに達して初めて、対局の楽しさが生まれる。文学も同じだ。得るものがあれば失うものもある。先生たちはよく「詳略得当」(詳しく書くべきところと簡潔にすべきところのバランス)を教えるが、これは試験の作文に対応するためだけの能力ではなく、あらゆる文章を書く際に必要なことだ。一つの要素が多くなれば、バランスを取るために、別の要素、あるいは他のいくつかの要素を